『教育』の本来の役割
ゆうたとひなへ
君たちはこれを人生におけるどの段階でよんでいるだろうか?
中学生?高校生?大学?社会人?
家族がいて、子供がいたりするだろうか?
どのステージにおいても、これから記すことは、自身の人生においても、自身の子供に対する教育においても大事にしてほしい。
人は一生学び続けなければならない。
これまでの社会においては、ある一定の若年期が教育期間という認識が通説だったかもしれない。
けど、それ自体が偏った見方で、人は死ぬまで成長を続けることができるし、それこそが君たちが生き続ける理由の一つかもしれない。
なぜなら、得た学びは誰にも奪われることがない、最高の財産だからだ。
どんなにお金を稼いでも、土地をはじめとされるバランスシートに乗ってくる資産でも、自身が愛情を注いできた家族や友人といった人脈、見える世界のそれは、私たちは死という機会と同時に手放さなければならない。
しかし、学びだけは誰にも奪われない。
「これが完璧な人生」という100点の正解なんてものはない。
それでも、よりよく生きるために知っておくべき理(ことわり)はある。
だからこそ、少し教育という事について、大事な〇〇を話しておこうと思う。
まず教育以前に私たちは、なぜ生まれてきたか?
いくつかの答えがあるけど、ここでは、一つだけ紹介しておく。
それはね、『種の継続』というプログラムが私たち人間には施されているからなんだよ。
???
(*´Д`)ハァ?と思うだろう。
ただ、これは、まぎれもない真実だとふぁぁは思う。
というより、そうでなければ説明ができない。
君たちがそこにいて、ふぁぁがここにいる事が何よりの根拠だ。
そのプログラミングがなされていなければ、人類は既に絶滅していたはずなんだよ。
人類より遥かに強固なマンモスや恐竜は、気候変動に負けて絶滅した。
一方、人間は力を合わせるという知恵を身に着け、寒さをしのぐためにどうするかという知恵を身に着け、自分たちより強固な生物さえも絶滅した地球環境の変化を乗り越えてきた。
そしてそれは、言葉を使った教育という語り継ぐ事が脈々と行われてきたからなんだよ。
これらは生きる上での大切な前提。
だからね。教育を語る上でまず大事なのは、
『子供の頃に自分がしてもらってよかったことを、自分たちの子供にしてあげなさい。』
いわゆる教育と知恵を伝承していきなさい。
つまり『教育するという事を教育する』。
先に話したみたいに語り継がれなければ、私たちに施されているはずの『種の継続』は途絶えるんだよ。
そして、その戦わなければならない相手と戦い方は、時代によって異なってくる。
日本が少子高齢化に至っているのは、この自分たちが生み出している時代の変化についていけなくなっているからだとふぁぁは思っている。
言葉を選ばずに平たく言うとバカになっている。環境に負けている。
そこから、脱するには教育しかない。
ただそれは、国語、算数、理科、社会を覚えるという事ではない。
生きていく為の知恵をひねり出す力をつけるという事。
まず、『Whyを繰り返し、自ら考え、答えを導く力をつけさせる』
多くの親が、「〇〇しちゃだめ!」とか「〇〇しなさい!」って答えを押し付ける。
これで考える力は育たない。
自ら答えを出させる為に、「なぜそう思うの?」「なんでそうするの?」っていう、その考えに至ったプロセスの確認と、その先に自ら正しい答えを出させて、その定着をさせないと生きる力は身につかない。
人間の精神世界は本来不可侵の領域で、その精神世界で決めた事が見える行動になって表れている。
その本来、不可侵な領域を侵されて起こさせられている行動は、ある一定の思想的自由を得た年頃になって、きれいに忘れ去られる。
小学校で教わった事の多くが大人になるとできないのが、いい例だ。
『元気よく挨拶をしましょう!』とかね?
大人が小学生とあいさつ対決したら、絶対に負ける(^^;)って思うでしょ?
これとて、「挨拶をしろ」っていう、ゴールだけを与えているからそうなっているだけなんだよ。
なんで挨拶するの?挨拶したら、あるいはしないとどうなるの?を考えないと「挨拶をする」という行為の意味がわからずに、思想的自由を手に入れた時にはしなくなっている。
ちなみにふぁぁの考える挨拶の最終的な答えは、皆が幸せに生きる為。
そのマイルストーンとして、相手の存在承認がある。
人間がされてもっとも辛い〇〇は無視だ。
自身の存在がなきものとされる事は、人の精神世界を崩壊させる。
そして、その人がいなくなる事で自分自身が苦しい想いをする。
そんな思いをしなくていいように、させなくていいように、相手に考えさせて答えを導き出させる力を与えていってあげてください。
『小さな苦労、小さな我慢を体験させる』
これはね、人生は良い時ばかりではない。という事を教える事。
長い人生の中で、一時も苦労をしないなんてことは絶対にない。
それは、どんな成功者や大富豪の下にうまれてもそうだ。
「限界効用逓減の法則」というものが人の中には、働いていて、人それぞれに「参照基準点」というものがある。
???なに?それ?どういう事?
人は過去の経験によって作られた価値基準って言うものがあって、それより上だと満足するし、それより下だと満足できない。
慣れたものに対して、満足感を感じなくなる傾向を人はみな持っているっていう法則の事だ。
例えば、おいしいものばかり食べて毎日過ごしてた人に、スープとパンだけの質素な食事を与えたら、それに満足しないでしょう?でも、ホームレスの人にしてみれば、その質素な食事はごちそうになる。
同じ事象でも、人によって感じる事は違うから、同じ事象でも幸せにも不幸にもなれる。
またどこかで話すけど、つまり、どんな環境下に置かれていても人は悩み苦しむ事があるよって事だ。
だからこそ、『その上手くいかない時間、思い通りにならない時間』に腐ることなく、成長して、その状況を打破しようとする姿勢を身に着けなければいけない。
その為に、小さな我慢や小さな苦労を経験的にさせないといけない。
ふぁぁやもぁが、なんでもかんでも君たちが欲しいと言ったときに買い与えなかった理由はここにある。
経済的には買えたよ。
君たちが欲しがる程度の数百円の消しゴムだのおもちゃだの。
ただ、それをほいほい与えると君たちがバカになるし、この先を生きていく上で、つらい思いをするようになるから与えなかっただけの話だ。
だから、これから先、どんなに君たちが社会的に成功しても、舌を肥やすような事はしてはいけない。「eat poorly、think richly」の精神で自身の幸福感が高められる状態を維持しなさい。
『個性を大切にする』
これが日本の教育には著しく欠けている。調和を重んじる民族であるが故の性のようなものなのだろうが、教育とは本来、人が幸せに生きる為のもの。
それなのに、全ての人に国語、算数、理科、社会が必要かと問われれば答えは「No」だとふぁぁは思う。
限られた人生、時間の中で、なぜ興味も関心もないものに時間を割かせなければならないのか?
どちらかというと、一部の統制を図る側が都合よく統制が図れるように育てられているようにしかふぁぁには思えない。
子供たちを取り巻く環境も大きく変わった時代の中で、今なお同じ方法がとられている事自体に違和感しか感じない。
『種の起源』で有名なダーウィンは、幼少期に他の科目には目もくれず生物観察だけをしていた。後にケンブリッジ大学で生物化学を専攻して金字塔を立てた。
近いところだと、スティーブジョブスも受験秀才でもなんでもなく、どちらかというとドロップアウトしたとされている背景をもつ。
他にも多くのノーベル賞受賞者が、同じように一つの事にのめりこんで、世の中に良い影響を及ぼしている。
彼らは、自己実現の先に社会貢献という欲求にたどり着いた人達で、自身の命の時間を投資して、自らも幸せな時間を過ごしつつ、社会に貢献を果たした教育の従来の意味を体現した人達だとふぁぁは思う。
日本という同調バイアスのかかりやすい環境があるからこそ、その構造をしっかり認識して、自身や自身の命の時間を何に使うのかを見極め、学びを深め、そして、君たちの大事な人たちにそれを伝承して行ってください。
ふぁぁより